らくがきひろば

KKさんの仲間の一人、「善さん」が40年前の仕事における思い出の一つを紹介します。

当時、会社勤めの色鉛筆画家KKさんは、輸出プラントプロジェクトのエンジニアリング業務に従事し、当然のことながら海外出張があり時々一緒になる機会があった。                                                         

1980年の9月頃だったと記憶する。同じプロジェクト(シンガポール向け化学プラントプロジェクト)を担当し、KKさんは、プロジェクトコ ンソーシャム相手であるエンジニアリング会社とのプロジェクトコーディネーション業務の為、アメリカのコネチカット州スタンフォードに滞在 しており、そこへ打合せの為1週間ほど出張した。 

昼間の打合せを終え、それぞれの夕食のあと、先方のエンジニアの自宅へKKさん共々お茶に招かれた。イタリア系夫婦二人住まいの戸建て住宅に 案内された。静かな環境の良い住まいだったと記憶する。彼らは既に19年アメリカに住んでいるが、まだパスポート生活をしており、将来イタリアへの帰国希望を捨てきれておらずアメリカへの帰化は、まだ決めていないと言っていた。

いろいろ、日本やアメリカの事情、イタリアへの郷愁等々下手な日本人英語での会話が弾み、イタリア人奥さんも非常に上機嫌だった。そして、 会話が終わりに近づいてくると、突然イタリア人奥さんが「ピエロ(旦那の名前)、なぜ日本人の英語はこんなに解りやすいのか、普段近所の  アメリカの人達との間で話す英語は、これほどクリアーには理解できない」と、イタリア人独特の身振り手振りを交えた大きな声で言い放った。那のピエロさんはそれは、互いにネイティブでないからだと説明していたようだった

なんとなく嬉しくもあったが、どのように答えて良いかわからず、苦笑いをするしかなかった。そして、帰り際に我々日本人が Nice to see you and thankyou for great talkと言い、奥さんが飛び切りの笑顔で送ってくれた。不慣れなのでハグはしなかった。


引き続き、KKさんと同じ会社でプラントエンジニアリング業務に従事していた、「生(いく)さん」が体験した海外プロジェクトにおいて、語学にまつわるいくつかのエピソードを紹介します。

まず第1は、最初の外国出張地インド、グジャラート州、バローダ。リン系肥料プラント建設現場でのこと。当時、バローダ大学のインド舞踊科に留学している日本女性が居り、現場へ時々米国やネパールからの留学生を連れて来ていた。若かりし頃のこと、休日一緒にピクニックに行ったりしていたが、ある時、米国からの留学生から硫酸プラントの説明を求められ、話すより書いたものの方がよいだろうと、Operation Manual の中のProcess Description を手渡したところ、彼女曰く、「英語がうまく話せないのにどうしてこんな文章が書けるの?」と聞かれた。      

第2は、時は巡りロンドン駐在時代、幸い英国から出ると英語が外国語になり、ある時、ちょっとややこしい会議があり、英・独・仏・伊のエンジニアリング会社の担当が集まったことがあった。英国人以外の英語がなんとわかりやすかったことかと感じた。多分、この会議では英国人が一番わかりにくかったのでは。やはりネイティブイングリッシュ、特にスラングや方言(コックニー、米国南部訛り)を含む英語の難しさは理解できる。上記で「善さん」が訪問したイタリア人家族も同じ思いだったのではと想像する。                             

第3は、エジプト、ガス処理プラント(ESGPII)での経験。第2に関連する話だが、客先側のコンサルタントが米国Flourから派遣された米国南部出身の人物、南部訛りの英語について行けず、彼曰く、当時我が陣営に英国から来てもらっていたコンストラクションマネージャーに、英語 to 英語の通訳を依頼される始末。日本でもいえることだが、方言にはついて行けない。